LOGIN「お姉ちゃん、もう少し食べて」
「小雪こそ食べなさい。細すぎるわよ」 「お姉ちゃんだって!」 「私はいいの」 「よくない!」 小さな膳を挟み、雪乃と小雪は向かい合っていた。 再会してから、まだ一刻も経っていない。 それなのに雪乃は、小雪が何を食べているのか、夜は眠れているのか、着物は足りているのかと、聞きたいことが尽きなかった。 「本当に、困ってることはない?」 「ないよ」 「お金は?」 「黒羽さまが、取り返してくれたから」 小雪はそう言って、ちらりと朔夜を見る。 少し離れた場所で、朔夜は静かに茶を飲んでいた。 まるで姉妹のやり取りなど聞いていないような顔をしている。 雪乃は眉を寄せた。 「ねえ、朔夜」 「なんだ」 「あなた、小雪に何をしてくれたの?」 「必要なことをしただけだ」 「それじゃ分からないのよ」 小雪がくすりと笑った。 「黒羽さまね、怖そうだけど優しいよ」 「怖そうは余計だ」 「あ、ごめんなさい」 「別にいい」 雪乃は朔夜をじっと見た。 「……小雪には優しいのね」 「おまえの妹だからな」 「それだけ?」 「ああ」 あまりにも迷いなく答えるので、雪乃は少し拍子抜けした。 小雪は首を傾げる。 「黒羽さま、お姉ちゃんのこと本当に好きなんですね」 雪乃がむせた。 「ちょ、小雪!」 「だって、お姉ちゃんの話をするときだけ、少し声が優しいもん」 「そうなの?」 雪乃が朔夜を見る。 朔夜は平然としていた。 「知らん」 「知らんって何よ!」 「自分の声など聞かん」 「そういう話じゃないでしょ!」 小雪がまた笑う。 その笑顔を見て、雪乃の胸が緩んだ。 ああ。 この子が笑っている。 それだけでいい。 花霞楼で過ごした年月が無駄ではなかったと思える。 雪乃はそっと小雪の手を握った。 「……元気でいてくれて、本当によかった」 「お姉ちゃん」 「もう二度と、あんな男に近づかせないから」 小雪の表情が曇る。 「鷹司さま……?」 「そうよ」 雪乃の声が低くなった。 「借金は返し終わってたんでしょう。それなのに私の金を取って、小雪にまで手を出そうとするなんて」 「でも――」 「許さない」 雪乃はきっぱりと言った。 花魁として客の前にいるときとは違う。 姉としての顔だった。 そのとき。 屋敷の外が騒がしくなった。 誰かが止める声。 続いて、男の冷たい声が聞こえる。 「退け。俺を誰だと思っている」 雪乃の顔から血の気が引いた。 小雪も息を呑む。 朔夜だけが、何事もないように茶碗を置いた。 「来たか」 「……朔夜?」 「座っていろ」 「誰が来たの?」 朔夜は立ち上がった。 答える必要はなかった。 襖が乱暴に開く。 「随分と楽しそうだな」 そこに立っていた男を見て、雪乃は唇を噛んだ。 鷹司蓮。 豪奢な濃紫の着物。 隙なく整えられた髪。 細く冷たい目。 黙っていれば、美しい男だった。 黙っていれば。 「……鷹司さま」 雪乃が立ち上がる。 蓮は彼女を一瞥した。 「花霞楼一の花魁が、勝手に外を出歩くとはな」 「今日は休みをいただいております」 「誰が許した」 雪乃の眉がぴくりと動く。 「女将です」 「そういう意味ではない」 「では、どういう意味でしょう」 蓮は薄く笑った。 「おまえは俺の借金で花霞楼へ入った女だろう」 空気が変わった。 雪乃の顔から笑みが消える。 「……その借金は、もう返したはずです」 「誰がそう言った?」 「帳簿を見た」 朔夜だった。 蓮の視線が、ゆっくり朔夜へ向く。 「貴様か」 「ああ」 「他人の帳簿を勝手に漁るとは、品がないな」 「人の金を抜くよりはましだ」 蓮の目が細くなった。 雪乃は一瞬、笑いそうになった。 朔夜は相変わらず無表情だ。 だが、言うことは容赦がない。 「……面白い男だ」 蓮は扇を開いた。 「黒羽朔夜。どこの家の者だ」 「家などない」 「浪人か?」 「違う」 「では何者だ」 朔夜は答えなかった。 蓮は鼻で笑う。 「身分も明かせぬ男が、俺に楯突くか」 「身分があれば、人の金を奪っていいのか」 「…………」 小雪が、ぽつりと言った。 声に悪意はなかった。 本当に、不思議そうな顔をしていた。 蓮がゆっくり振り返る。 「……何だ、小娘」 「だって、黒羽さまの言うとおりですよね」 小雪は首を傾げた。 「偉い人なら、人のお金を取っていいんですか?」 「おまえは黙っていろ」 「分かりました」 小雪は `( '꒳' )すんっ` と黙った。 蓮も黙った。 数秒。 「……なぜ、本当に黙る」 「黙っていろって言ったからです」 「…………」 雪乃が口元を押さえた。 朔夜が雪乃を見る。 「笑うなら笑え」 「だって……!」 蓮のこめかみが僅かに引きつる。 「相変わらず、調子の狂う小娘だ」 小雪がまた首を傾げた。 「鷹司さま、怒ってます?」 「怒っていない」 「お顔が怖いです」 「元からだ」 「お顔は綺麗なのに」 「…………」 今度こそ、蓮が止まった。 雪乃は瞬きをする。 小雪は何も気づかない。 「小雪」 「なあに?」 「その男を褒めなくていいのよ」 「でも、本当に綺麗なお顔だよ?」 蓮が扇で口元を隠す。 「……くだらん」 「耳、赤いですよ」 「黙れ!」 「はい」 再び `( '꒳' )すんっ`。 雪乃は耐えきれず、吹き出した。 「ちょっと、小雪……!」 「え?」 「あなた、本当に……」 かわいい。 かわいすぎる。 雪乃は小雪を抱きしめたくなった。 しかし、その前に蓮の冷たい声が落ちる。 「茶番はそこまでだ」 その声で、空気が戻った。 「雪乃」 「何でしょう」 「花霞楼へ戻れ」 「お断りします」 即答した。 蓮が眉を上げる。 「俺に逆らうのか?」 「借金はもうありません」 「借金など、また作ればいい」 雪乃の顔が強張った。 小雪が不安そうに姉を見る。 だが、朔夜は動かなかった。 「できない」 短く言った。 蓮が朔夜を見る。 「何?」 「雪乃にも、小雪にも、もう触れさせない」 「貴様に何の権利がある」 朔夜は淡々と答える。 「雪乃を嫁にする」 「ちょっと!」 雪乃が振り返る。 「決まってないって言ってるでしょう!」 「予定だ」 「予定にもしてない!」 蓮が笑った。 だが、その笑みは冷たい。 「なるほど」 雪乃へ視線を戻す。 「花魁を身請けして妻にするつもりか」 「そうだ」 「愚かな男だな」 朔夜の表情は変わらない。 蓮は続ける。 「その女がどれだけの男を相手にしてきたか、知らぬわけではあるまい」 雪乃の胸が、僅かに痛んだ。 分かっている。 花魁なのだ。 こういう言葉には慣れている。 客の前では何も感じない。 そう思っていた。 朔夜が、蓮を見た。 「だから何だ」 雪乃が顔を上げた。 「……え?」 「雪乃がどう生きてきたかは、雪乃の価値とは関係ない」 淡々としていた。 怒鳴りもしない。 格好をつけているわけでもない。 「俺が欲しいのは、雪乃だ」 雪乃の胸が、大きく鳴った。 蓮が目を細める。 「随分と惚れたものだな」 「そうだな」 また即答だった。 雪乃のほうが耐えられなくなる。 「朔夜! 今はそういう話じゃない!」 「事実だ」 「だから!」 小雪が嬉しそうに姉を見ている。 「お姉ちゃん、顔真っ赤」 「小雪まで言わないで!」 そのときだった。 蓮の表情が変わった。 朔夜の背後。 わずかに揺れた白いものを見た。 人間にはあるはずのないもの。 尾。 一瞬だった。 しかし蓮は確かに見た。 「……なるほど」 先ほどまでの嘲笑が消える。 「黒羽、か」 朔夜の目が細くなる。 「何が言いたい」 蓮は扇を閉じた。 「いや。ようやく分かっただけだ」 「何を」 「貴様が何者なのか」 雪乃が二人を見比べる。 「鷹司さま、知ってるの?」 蓮は雪乃を見る。 その目には、先ほどまでとは違うものがあった。 哀れみ。 あるいは警告。 「雪乃」 「何です」 「その男の嫁になるのは、勝手だ」 蓮が口元を歪めた。 「だが、俺ならやめておく」 朔夜の空気が、僅かに変わった。 「蓮」 初めて、朔夜が名前で呼んだ。 低い声。 それだけで部屋が冷えたように感じた。 だが蓮は引かなかった。 「何だ。本人には話していないのか?」 雪乃の胸に、不安が広がる。 「……何のこと?」 誰も答えない。 「朔夜?」 朔夜は黙っている。 蓮が笑った。 「ならば俺が教えてやろう」 「鷹司」 「九尾の妖狐に嫁いだ人間の女が、どうなるか」 雪乃の呼吸が止まった。 小雪が姉の袖を掴む。 蓮は静かに告げた。 「百夜目まで、生きた花嫁はいない」 雪乃は朔夜を見た。 朔夜の顔からは、何も読み取れなかった。 「……嘘、よね?」 沈黙。 「朔夜」 それでも、彼は答えなかった。 その沈黙だけで。 雪乃には十分だった。百夜が始まった。朔夜の言葉を聞いても、雪乃にはすぐ意味が理解できなかった。左肩に浮かんだ白銀の紋様。雪の結晶にも、狐の尾にも見えるその印は、淡い光を放っている。「……消えない」雪乃は指先で触れようとした。「触るな」朔夜がその手を止める。いつもの淡々とした声。けれど、手に込められた力が少し強い。雪乃は朔夜を見た。「痛くはないよ」「今はな」「今は?」朔夜は答えなかった。「朔夜」「……朝になったら話す」「今聞きたい」「雪乃」「百日後に死ぬかもしれないって言われて、眠れると思う?」朔夜が黙る。雪乃は彼の手を振りほどかなかった。「隠さないで」「…………」「もう、あたしの人生なんだから」その言葉に、朔夜の目が僅かに動いた。やがて。「分かった」朔夜は雪乃の前に座った。「百夜の印が現れた者は、一夜ごとに妖の気を受ける」「妖の気?」「俺の力だ」「それが、あたしの身体に入ってくるってこと?」「ああ」「それで人間の身体が耐えられなくなる」「そうだ」雪乃は肩の印を見る。「じゃあ、百日経つ前に半妖になればいいんでしょう?」「それほど簡単ではない」「どうして?」「人としての身体が、妖の力を拒む」朔夜の声が低くなる。「過去の花嫁たちも、それで死んだ」雪乃は息を止めた。「……何人?」朔夜は答えない。「朔夜」「七人」雪乃の表情が固まる。「七人……」「俺だけの花嫁ではない」「え?」「黒羽の一族全体だ」雪乃は少しだけ息を吐いた。けれど。胸の中に生まれた違和感は消えなかった。「それでも……あなたも、花嫁を迎えたことがあるの?」沈黙。雪乃の胸がざわつく。自分でも驚いた。百夜の呪いより。その質問の答えを聞くほうが怖い。朔夜は首を横に振った。「ない」「……本当に?」「ああ」「じゃあ、あたしが初めて?」「そうだ」雪乃は思わず胸を撫で下ろした。そして。すぐに我に返る。「って、何安心してるのよ、あたし」「嫉妬か?」「違う!」「そうか」「ちょっとくらい否定させなさいよ!」朔夜の表情は変わらない。雪乃はむっとして、布団へ座り直した。「でも、変ね」「何がだ」「あなたは千年生きてるんでしょう?」「ああ」「その間、一度も好きな人がいなかったの?」「いなかった」
朔夜の指が、雪乃の頬に触れていた。ただ、それだけだった。なのに。雪乃は動けなかった。男に触れられることなど、珍しくもない。花霞楼では、それが仕事だった。手を握られる。肩を抱かれる。甘い言葉を囁かれる。相手が何を望んでいるのかを察し、それに応える。雪乃にとって、それは呼吸と同じくらい自然な仕事だった。けれど。今は違う。「……雪乃」朔夜が呼ぶ。低い声。それだけで、胸の奥が熱くなる。「何?」「嫌なら言え」雪乃は目を瞬いた。「……何が?」「触れられることだ」雪乃は少し笑った。「今さら?」「ああ」「花魁だった女に聞くこと?」朔夜の表情は変わらない。「花魁だったことは関係ない」「…………」「今ここにいるのは、俺の客ではないだろう」雪乃の胸が、ぎゅっと締めつけられた。朔夜の手が離れようとする。反射的に。雪乃はその手首を掴んだ。「……待って」朔夜が止まる。雪乃自身が、一番驚いていた。今まで。客の手を止めたいと思ったことはあっても。離れていく手を追ったことなどなかった。「どうした」「……分からない」「何が」「あたし、自分でも分からないの」雪乃は朔夜の手を握ったまま俯いた。「こういうとき、いつもなら分かるのよ」相手が欲しい言葉。欲しい表情。欲しい仕草。全部。「でも、朔夜の前だと……何をしたらいいのか分からない」「何もしなくていい」雪乃が顔を上げる。「え?」「おまえは俺を楽しませるためにいるわけじゃない」朔夜は淡々と言った。「笑いたくなければ笑わなくていい」「…………」「触れたくなければ、触れなくていい」雪乃の指が、朔夜の袖を握る。「じゃあ……」「なんだ」「触れたいときは?」朔夜の金色の瞳が、雪乃を見る。「触れればいい」「……簡単に言うのね」「難しいのか」「難しいわよ」雪乃は小さく笑った。「好きな男になんて、触れたことないもの」初めて口にした。好きな男。朔夜は驚きもしない。赤面もしない。ただ。「そうか」と言った。雪乃は眉を寄せる。「もうちょっと何かないの?」「何が欲しい」「知らない!」「困った女だな」「あなたにだけは言われたくない!」雪乃が睨む。朔夜はほんの少しだけ目を細めた。笑った。たぶん。それを見たら、余計に悔
翌朝。花霞楼は、いつもとは違うざわめきに包まれていた。遊女たちが廊下の隅に集まり、小声で話している。「黒羽さまがいらしたって」「雪乃姉さんを身請けするって、本当?」「でも鷹司さまが許さないって……」雪乃は鏡台の前で、黙って紅を引いていた。いつもと同じ化粧。いつもと同じ髪。いつもと同じ、花霞楼の雪乃。けれど。今日が最後になるかもしれない。鏡の中の自分を見つめる。「……最後、か」昨日までなら、そんなことを考えるだけで怖かった。花霞楼を出たら、自分に何が残るのだろう。男を楽しませる術。酒を注ぐ手つき。客が欲しい言葉を見抜く目。ここで身につけたものは、外の世界で何になるのだろう。けれど今は。不思議と、少しだけ楽しみだった。小雪がいる。そして。「……朔夜」名前を口にすると、胸の奥がほんの少し温かくなる。「何考えてるのよ、あたし」雪乃は自分の頬を軽く叩いた。今日は恋に浮かれている場合ではない。まず、自分の人生を取り戻す。そのための日だ。大広間には、すでに三人の男がいた。花霞楼の主人。鷹司蓮。そして黒羽朔夜。女将が雪乃を迎える。「来たね」「はい」雪乃は座敷へ入り、静かに座った。仕事中の一人称に戻す。「お待たせいたしました」鷹司が薄く笑った。「相変わらず、こういう席では完璧だな」「お褒めいただき、ありがとう存じます」「褒めてはいない」「まあ。残念でございます」鷹司の眉が動く。朔夜は何も言わない。ただ雪乃を見る。それだけで、なぜか落ち着いた。主人が咳払いをした。「では、雪乃の身請けについてですが……」鷹司が一枚の証文を畳へ置いた。「話すことなどない」昨日、雪乃が見せられたものだ。新たな借金。保証人、鷹司蓮。「この女には、まだこれだけの負債がある」朔夜は証文を一瞥した。「偽物だ」座敷が静まり返った。鷹司の目が細くなる。「何?」朔夜は懐から、別の帳簿を取り出した。「三年前からの入金記録だ」雪乃が目を見開く。「それ……」「小雪の家から回収した」帳簿を開く。雪乃が花霞楼から送り続けていた金。鷹司側へ渡った金。借金として差し引かれた額。すべて記録されている。朔夜が淡々と言った。「元金も利息も、とっくに払い終わっている」鷹司は鼻で笑った。「だか
「百夜目まで、生きた花嫁はいない」 鷹司蓮の言葉が、部屋に残った。 雪乃は朔夜を見つめた。 いつもと変わらない顔。 静かな金色の瞳。 だからこそ、怖かった。 「……朔夜」 返事はない。 「嘘だって言って」 小雪が雪乃の袖を握る。 朔夜は、ゆっくり目を伏せた。 「嘘ではない」 雪乃の胸が冷えた。 「じゃあ、本当なの?」 「ああ」 「九尾の妖狐に嫁いだ人間は、百日で死ぬ?」 「正確には違う」 鷹司が鼻で笑った。 「大差あるまい」 朔夜の視線が鷹司へ向く。 「黙れ」 声は低かった。 怒鳴ったわけではない。 それなのに、空気が凍ったように感じた。 鷹司も笑みを消す。 雪乃は立ち上がった。 「二人とも、あたしを置いて話を進めないで」 朔夜を見る。 「説明して」 「ああ」 「最初から全部」 「分かった」 朔夜は座り直した。 雪乃も、その正面へ座る。 小雪は姉の隣から離れなかった。 鷹司だけが柱に寄りかかり、腕を組んでいる。 朔夜が口を開いた。 「九尾の一族には、古い契りがある」 「契り?」 「人の女を伴侶として妖の領域へ迎えると、百夜の間に、その女の命が妖気に侵される」 雪乃は黙って聞いた。 「身体が耐えられなければ、百夜を迎える前に死ぬ」 小雪の指が、雪乃の袖を強く掴む。 「じゃあ……お姉ちゃんが黒羽さまと結婚したら……」 「必ず死ぬわけではない」 朔夜が言った。 「助かる方法はある」 鷹司が薄く笑う。 「成功した者はいないがな」 「鷹司さま!」 小雪が睨んだ。 蓮が眉を上げる。 「何だ」 「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」 「事実を言っただけだ」 「でも、お姉ちゃんが怖がるでしょう」 「怖いなら嫁がなければいい」 「それはそうですけど」 小雪は少し考えてから、 「……鷹司さまって、言い方が嫌な人ですね」 と言った。 「…………」 蓮の眉間に皺が寄る。 「おまえにだけは言われたくない」 「どうしてですか?」 「もういい」 「そうですか」 小雪は `( '꒳' )すんっ` と姉のほうを向いた。 蓮が何か言いたそうに口を開き、やめる。 雪乃はこんなときなのに、少しだけ笑いそうになった。 だが、すぐに朔夜へ視線を戻した。 「助かる
「お姉ちゃん、もう少し食べて」 「小雪こそ食べなさい。細すぎるわよ」 「お姉ちゃんだって!」 「私はいいの」 「よくない!」 小さな膳を挟み、雪乃と小雪は向かい合っていた。 再会してから、まだ一刻も経っていない。 それなのに雪乃は、小雪が何を食べているのか、夜は眠れているのか、着物は足りているのかと、聞きたいことが尽きなかった。 「本当に、困ってることはない?」 「ないよ」 「お金は?」 「黒羽さまが、取り返してくれたから」 小雪はそう言って、ちらりと朔夜を見る。 少し離れた場所で、朔夜は静かに茶を飲んでいた。 まるで姉妹のやり取りなど聞いていないような顔をしている。 雪乃は眉を寄せた。 「ねえ、朔夜」 「なんだ」 「あなた、小雪に何をしてくれたの?」 「必要なことをしただけだ」 「それじゃ分からないのよ」 小雪がくすりと笑った。 「黒羽さまね、怖そうだけど優しいよ」 「怖そうは余計だ」 「あ、ごめんなさい」 「別にいい」 雪乃は朔夜をじっと見た。 「……小雪には優しいのね」 「おまえの妹だからな」 「それだけ?」 「ああ」 あまりにも迷いなく答えるので、雪乃は少し拍子抜けした。 小雪は首を傾げる。 「黒羽さま、お姉ちゃんのこと本当に好きなんですね」 雪乃がむせた。 「ちょ、小雪!」 「だって、お姉ちゃんの話をするときだけ、少し声が優しいもん」 「そうなの?」 雪乃が朔夜を見る。 朔夜は平然としていた。 「知らん」 「知らんって何よ!」 「自分の声など聞かん」 「そういう話じゃないでしょ!」 小雪がまた笑う。 その笑顔を見て、雪乃の胸が緩んだ。 ああ。 この子が笑っている。 それだけでいい。 花霞楼で過ごした年月が無駄ではなかったと思える。 雪乃はそっと小雪の手を握った。 「……元気でいてくれて、本当によかった」 「お姉ちゃん」 「もう二度と、あんな男に近づかせないから」 小雪の表情が曇る。 「鷹司さま……?」 「そうよ」 雪乃の声が低くなった。 「借金は返し終わってたんでしょう。それなのに私の金を取って、小雪にまで手を出そうとするなんて」 「でも――」 「許さない」 雪乃はきっぱりと言った。 花魁として客の前にいるときとは違う。 姉として
雪が降っていた。まだ雪乃が幼かった頃。山道の奥から、か細い鳴き声が聞こえた。「……なに?」雪乃は足を止めた。家へ帰る途中だった。母には、暗くなる前に戻りなさいと言われていた。それでも、その声を無視することができなかった。木々の間を進む。そこで見つけたのは、一匹の白い狐だった。真っ白な毛並み。金色の瞳。そして、後ろ脚には鉄の罠が食い込んでいる。「かわいそう……」雪乃は狐のそばにしゃがみこんだ。狐が牙を剥く。「大丈夫。何もしないよ」もう一度、低く唸る。「怖いよね」雪乃は自分の羽織を脱いだ。「でも、このままだと死んじゃうよ」狐はじっと雪乃を見ていた。雪乃は震える指で、鉄の罠に手をかけた。硬い。子どもの力では簡単には開かない。何度も指を挟みそうになりながら、雪乃は必死に力を込めた。「……もうちょっとだから」ようやく罠が外れる。白狐は飛び退いた。その脚から、赤い血が雪へ落ちた。雪乃は羽織を裂き、狐の脚に巻いた。「これで少しはいいかな」狐は逃げなかった。ただ、金色の瞳で雪乃を見つめている。「もう、人間に捕まっちゃ駄目だよ」雪乃は笑った。「今度会ったら、ちゃんと逃げるんだからね」狐は一度だけ、雪乃の手に鼻先を寄せた。そして雪の中へ消えていった。それが、雪乃の記憶に残る白狐だった。「……あの狐が、朔夜?」翌朝。雪乃は布団の上で天井を見つめていた。眠れなかった。黒羽朔夜。白銀の髪。金色の瞳。言われてみれば、あの日の狐と同じ色だった。「いやいや……」雪乃は起き上がった。「狐が男になるわけないじゃない」口に出してから、昨夜見たものを思い出す。屏風に映った、白い尾。「……いや、なるの?」自分で問いかけても、答えてくれる者はいない。雪乃は頭を抱えた。花霞楼には、怪談好きの客も来る。狐が人に化ける話。狸が旅人を騙す話。山には人ならざる者が棲むという昔話。それを本気で信じたことなどなかった。なのに。朔夜だけは。「……人間じゃないっていうの?」襖の向こうから声がした。「雪乃姉さん。黒羽さまがお見えです」雪乃は顔を上げた。「また!?」昨日、明日来ると言っていた。確かに来るとは聞いていた。それでも早すぎる。「朝から何なのよ、あの男……」文句を言いながら、雪乃







