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第4話 悪代官と百夜の花嫁

Author: 天咲琴乃
last update publish date: 2026-09-26 22:48:42

「お姉ちゃん、もう少し食べて」

「小雪こそ食べなさい。細すぎるわよ」

「お姉ちゃんだって!」

「私はいいの」

「よくない!」

小さな膳を挟み、雪乃と小雪は向かい合っていた。

再会してから、まだ一刻も経っていない。

それなのに雪乃は、小雪が何を食べているのか、夜は眠れているのか、着物は足りているのかと、聞きたいことが尽きなかった。

「本当に、困ってることはない?」

「ないよ」

「お金は?」

「黒羽さまが、取り返してくれたから」

小雪はそう言って、ちらりと朔夜を見る。

少し離れた場所で、朔夜は静かに茶を飲んでいた。

まるで姉妹のやり取りなど聞いていないような顔をしている。

雪乃は眉を寄せた。

「ねえ、朔夜」

「なんだ」

「あなた、小雪に何をしてくれたの?」

「必要なことをしただけだ」

「それじゃ分からないのよ」

小雪がくすりと笑った。

「黒羽さまね、怖そうだけど優しいよ」

「怖そうは余計だ」

「あ、ごめんなさい」

「別にいい」

雪乃は朔夜をじっと見た。

「……小雪には優しいのね」

「おまえの妹だからな」

「それだけ?」

「ああ」

あまりにも迷いなく答えるので、雪乃は少し拍子抜けした。

小雪は首を傾げる。

「黒羽さま、お姉ちゃんのこと本当に好きなんですね」

雪乃がむせた。

「ちょ、小雪!」

「だって、お姉ちゃんの話をするときだけ、少し声が優しいもん」

「そうなの?」

雪乃が朔夜を見る。

朔夜は平然としていた。

「知らん」

「知らんって何よ!」

「自分の声など聞かん」

「そういう話じゃないでしょ!」

小雪がまた笑う。

その笑顔を見て、雪乃の胸が緩んだ。

ああ。

この子が笑っている。

それだけでいい。

花霞楼で過ごした年月が無駄ではなかったと思える。

雪乃はそっと小雪の手を握った。

「……元気でいてくれて、本当によかった」

「お姉ちゃん」

「もう二度と、あんな男に近づかせないから」

小雪の表情が曇る。

「鷹司さま……?」

「そうよ」

雪乃の声が低くなった。

「借金は返し終わってたんでしょう。それなのに私の金を取って、小雪にまで手を出そうとするなんて」

「でも――」

「許さない」

雪乃はきっぱりと言った。

花魁として客の前にいるときとは違う。

姉としての顔だった。

そのとき。

屋敷の外が騒がしくなった。

誰かが止める声。

続いて、男の冷たい声が聞こえる。

「退け。俺を誰だと思っている」

雪乃の顔から血の気が引いた。

小雪も息を呑む。

朔夜だけが、何事もないように茶碗を置いた。

「来たか」

「……朔夜?」

「座っていろ」

「誰が来たの?」

朔夜は立ち上がった。

答える必要はなかった。

襖が乱暴に開く。

「随分と楽しそうだな」

そこに立っていた男を見て、雪乃は唇を噛んだ。

鷹司蓮。

豪奢な濃紫の着物。

隙なく整えられた髪。

細く冷たい目。

黙っていれば、美しい男だった。

黙っていれば。

「……鷹司さま」

雪乃が立ち上がる。

蓮は彼女を一瞥した。

「花霞楼一の花魁が、勝手に外を出歩くとはな」

「今日は休みをいただいております」

「誰が許した」

雪乃の眉がぴくりと動く。

「女将です」

「そういう意味ではない」

「では、どういう意味でしょう」

蓮は薄く笑った。

「おまえは俺の借金で花霞楼へ入った女だろう」

空気が変わった。

雪乃の顔から笑みが消える。

「……その借金は、もう返したはずです」

「誰がそう言った?」

「帳簿を見た」

朔夜だった。

蓮の視線が、ゆっくり朔夜へ向く。

「貴様か」

「ああ」

「他人の帳簿を勝手に漁るとは、品がないな」

「人の金を抜くよりはましだ」

蓮の目が細くなった。

雪乃は一瞬、笑いそうになった。

朔夜は相変わらず無表情だ。

だが、言うことは容赦がない。

「……面白い男だ」

蓮は扇を開いた。

「黒羽朔夜。どこの家の者だ」

「家などない」

「浪人か?」

「違う」

「では何者だ」

朔夜は答えなかった。

蓮は鼻で笑う。

「身分も明かせぬ男が、俺に楯突くか」

「身分があれば、人の金を奪っていいのか」

「…………」

小雪が、ぽつりと言った。

声に悪意はなかった。

本当に、不思議そうな顔をしていた。

蓮がゆっくり振り返る。

「……何だ、小娘」

「だって、黒羽さまの言うとおりですよね」

小雪は首を傾げた。

「偉い人なら、人のお金を取っていいんですか?」

「おまえは黙っていろ」

「分かりました」

小雪は `( '꒳' )すんっ` と黙った。

蓮も黙った。

数秒。

「……なぜ、本当に黙る」

「黙っていろって言ったからです」

「…………」

雪乃が口元を押さえた。

朔夜が雪乃を見る。

「笑うなら笑え」

「だって……!」

蓮のこめかみが僅かに引きつる。

「相変わらず、調子の狂う小娘だ」

小雪がまた首を傾げた。

「鷹司さま、怒ってます?」

「怒っていない」

「お顔が怖いです」

「元からだ」

「お顔は綺麗なのに」

「…………」

今度こそ、蓮が止まった。

雪乃は瞬きをする。

小雪は何も気づかない。

「小雪」

「なあに?」

「その男を褒めなくていいのよ」

「でも、本当に綺麗なお顔だよ?」

蓮が扇で口元を隠す。

「……くだらん」

「耳、赤いですよ」

「黙れ!」

「はい」

再び `( '꒳' )すんっ`。

雪乃は耐えきれず、吹き出した。

「ちょっと、小雪……!」

「え?」

「あなた、本当に……」

かわいい。

かわいすぎる。

雪乃は小雪を抱きしめたくなった。

しかし、その前に蓮の冷たい声が落ちる。

「茶番はそこまでだ」

その声で、空気が戻った。

「雪乃」

「何でしょう」

「花霞楼へ戻れ」

「お断りします」

即答した。

蓮が眉を上げる。

「俺に逆らうのか?」

「借金はもうありません」

「借金など、また作ればいい」

雪乃の顔が強張った。

小雪が不安そうに姉を見る。

だが、朔夜は動かなかった。

「できない」

短く言った。

蓮が朔夜を見る。

「何?」

「雪乃にも、小雪にも、もう触れさせない」

「貴様に何の権利がある」

朔夜は淡々と答える。

「雪乃を嫁にする」

「ちょっと!」

雪乃が振り返る。

「決まってないって言ってるでしょう!」

「予定だ」

「予定にもしてない!」

蓮が笑った。

だが、その笑みは冷たい。

「なるほど」

雪乃へ視線を戻す。

「花魁を身請けして妻にするつもりか」

「そうだ」

「愚かな男だな」

朔夜の表情は変わらない。

蓮は続ける。

「その女がどれだけの男を相手にしてきたか、知らぬわけではあるまい」

雪乃の胸が、僅かに痛んだ。

分かっている。

花魁なのだ。

こういう言葉には慣れている。

客の前では何も感じない。

そう思っていた。

朔夜が、蓮を見た。

「だから何だ」

雪乃が顔を上げた。

「……え?」

「雪乃がどう生きてきたかは、雪乃の価値とは関係ない」

淡々としていた。

怒鳴りもしない。

格好をつけているわけでもない。

「俺が欲しいのは、雪乃だ」

雪乃の胸が、大きく鳴った。

蓮が目を細める。

「随分と惚れたものだな」

「そうだな」

また即答だった。

雪乃のほうが耐えられなくなる。

「朔夜! 今はそういう話じゃない!」

「事実だ」

「だから!」

小雪が嬉しそうに姉を見ている。

「お姉ちゃん、顔真っ赤」

「小雪まで言わないで!」

そのときだった。

蓮の表情が変わった。

朔夜の背後。

わずかに揺れた白いものを見た。

人間にはあるはずのないもの。

尾。

一瞬だった。

しかし蓮は確かに見た。

「……なるほど」

先ほどまでの嘲笑が消える。

「黒羽、か」

朔夜の目が細くなる。

「何が言いたい」

蓮は扇を閉じた。

「いや。ようやく分かっただけだ」

「何を」

「貴様が何者なのか」

雪乃が二人を見比べる。

「鷹司さま、知ってるの?」

蓮は雪乃を見る。

その目には、先ほどまでとは違うものがあった。

哀れみ。

あるいは警告。

「雪乃」

「何です」

「その男の嫁になるのは、勝手だ」

蓮が口元を歪めた。

「だが、俺ならやめておく」

朔夜の空気が、僅かに変わった。

「蓮」

初めて、朔夜が名前で呼んだ。

低い声。

それだけで部屋が冷えたように感じた。

だが蓮は引かなかった。

「何だ。本人には話していないのか?」

雪乃の胸に、不安が広がる。

「……何のこと?」

誰も答えない。

「朔夜?」

朔夜は黙っている。

蓮が笑った。

「ならば俺が教えてやろう」

「鷹司」

「九尾の妖狐に嫁いだ人間の女が、どうなるか」

雪乃の呼吸が止まった。

小雪が姉の袖を掴む。

蓮は静かに告げた。

「百夜目まで、生きた花嫁はいない」

雪乃は朔夜を見た。

朔夜の顔からは、何も読み取れなかった。

「……嘘、よね?」

沈黙。

「朔夜」

それでも、彼は答えなかった。

その沈黙だけで。

雪乃には十分だった。

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